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bohems'

複数人

ピーチジョン

 むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
 「幸せが刹那的でしかあり得ないものだとしても,慢性的な不安は消し去りたいよ」と言っておじいさんは山へしばかりに、「友達には終わりがこないのだとしたら,私たちがこの関係を選んだのは失敗だったのかしらね」と言っておばあさんは川へせんたくに行きました。
 「共犯関係で落ちていくような恋愛しかしてこなかった報いかしらね」と呟きながらおばあさんが川でせんたくをしていると、ドンブラコ、ドンブラコと、大きな桃が流れてきました。
 「一度も手に入れたことのないものを取り返そうとしているような人生ね」と思いながらおばあさんは大きな桃をひろいあげて、家に持ち帰りました。
 そして、「僕が誰かに思い出された時にだけ光るランプが欲しい」と言い続けているおじいさんと「生まれた時から独身のはずなのに人はいつから『独身』になるのでしょうね」と考えているているおばあさんが桃を食べようと桃を切ってみると、なんと中から元気の良い男の赤ちゃんが「見つけられるためにはそこに居ないといけないんだよ」と言って飛び出してきました。
 子どものいなかったおじいさんとおばあさんは、大喜びです。
 桃から生まれた男の子を、「不誠実を日常で濾して飲み続けているけれど,もう限界かもしれない」と思い始めていたおじいさんと「前向きになった途端不慮の事故で死ぬ気がするから前向きになれないのあたし」が口癖だったおばあさんは桃太郎と名付けました。
 「月とか青とか光とか,恋とか夢とか少女とか,そういうつよいことばを使っても,きれいなうたを生みだせる,律儀なひとにあこがれる」と言いながら桃太郎はスクスク育って、やがて強い男の子になりました。
    桃太郎の生きる世界には鬼がいなかっので彼は鬼退治にはいきませんでした。

 

めでたしめでたし

 

おしまい

こどものきみには、あまい煙を燻らせて

ぼくはSNSを通して人と関わりを持つことが好きだ。
これは骨身に染みついた自分の寂しさのせいだと思う。

高校に上がって、携帯を手にして、寂しさのはけ口を見つけた。
当時、若年層の間では、携帯で簡単に作れるホームページが流行っていた。
そこで自分の話をして、社会に対して釈明をしていた。
誰かがぼくの釈明を見ているかもしれないと思うと、救われた。
思えばこの時から、ぼくのSNSを通して人を求める性は疑いようもなく存在していた。



先日、SNSを通して知り合った年下の女から、
「妊娠したかもしれない」と連絡がきた。

もちろん、ぼくはその女と肉体関係を持っていない。
ぼくの子ではない。
単なる相談だ。

聞けば、お互いに恋心を抱いているにもかかわらず、結ばれることのない恋人がいるらしい。
当人はその人物のことを、セフレと呼んでいた。

なぜふたりはそうした関係に留まっているのかというと、セフレはどうやら結婚しているとのこと。
つまり、ふたりは不倫関係にあった。

しかし、性欲とも恋心ともしれない何かがふたりを縛り付け、
ついにはセフレは女と一緒に過ごすための部屋を借りていたらしい。

そうしてふたりは部屋にいる間は常に情事に耽っていた。
セフレは「気持ちよくないから」という理由で、避妊具をつけなかった。

その結果が、妊娠だった。

軽蔑を禁じ得なかった。

一通り罵倒したのちに、それでも、相談に乗った。

すぐにおろすことになったけれども、その選択があまりに当たり前になされ、
命の軽視がなされていたように思える。

確かに生んだところで、こどもは十中八九幸せになれないことは見えている。
それゆえに、最も正しそうな判断ではあるが、
幾ばくか、感傷的な振る舞いがあってもよかった気もする。

そして、最初の連絡を受けて数日後、こどもをおろしたと報告があった。

先に書いた感傷的振る舞いに関しては自分も該当していて、
他人事とはいえ、哀しみを以て命を排除することに向き合う必要があるように思えた。

半ば強制的に、ぼくはおなかのこを弔おうと思った。

ぼくの家には線香はないので、甘い香りを放つお香を焚いて、この来世に祈りを捧げた。

ぼくの祈りは届くのか。
届いたとして言葉は通じるのか。
女をゆるすことができるのか。

なにもわからなかった。






最近、どうにも文章を書くことが億劫になってしまった。
それはおそらく、文の構成や表現の稚拙さに、態度のような形で
現れてしまっているとおもう。

気が向いたらこの文も、推敲して、もう少し読めるものにしておきたいとおもう。

取り急ぎでもないけれど、そんなかんじで次はきみ。

夜の公園

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 高校二年生の頃、僕は他の人と同じで学校からの帰り道でよく、人は何のために生きているのだろう、とか、自分がいなくなったって何も変わらないじゃないか、などと考えてしまう癖がありました。「考えてしまう」とは言っても何か哲学的な議論を展開できる能力は僕にはなく、ただ脳内に疑問形を羅列していただけでした。そして、そんなことを考えているときに、彼女はきまって
 「そんなことで悩んでたってしょうがないじゃない」
 とか、
 「そんなこと考えて楽しい?」
 などと僕に言ってくるのです。その日も僕がそんなようなことを考えていると彼女は、「これあげる」と言って、ほとんど残っていないレモンティーの紙パックを僕の自転車のカゴに入れて走って行ってしまいました。僕は、捨てるのが面倒なだけでしょ、と声に出しかけましたが、彼女はもうこちらを振り返りそうもなく離れていってしまっているので、声に出すのを止め思うだけに留めました。
 わずかながらに液体の入った紙パックを自転車のカゴに入れたまま、僕は星ヶ丘から猫ヶ洞まで続くゆるやかな下り坂をペダルに足をかけずに進んで行きながら、先ほど彼女が駆けていった方向は彼女がいつも電車に乗る駅と反対方向であったことに気付きました。どこに向かって行ったのかに思いをめぐらせてみても、アテがなさ過ぎて思考はまったく続かなかったのですが、気がつくと坂を下り終えていて、自宅に着いたのでした。自転車を降りて紙パックの中のレモンティーを飲み干して家に入り、まず紙パックを水道水ですすいでからハサミで開き、キッチンにかかっているビニル袋にその開いた紙パックを入れました。僕の家ではそうすることになっていたのです。壁にかかった時計は十六時五十分を指していたように思います。
 僕の家では夜ご飯は十八時と決まっていて、この日も十八時に母親の作った何らかの料理を食べて十八時四十分には家を出ました。彼女と星ヶ丘の公園で会う約束をしていたのです。僕は猫ヶ洞から星ヶ丘に続くゆるやかな上り坂をペダルをこいで進みつつ、彼女は高校を卒業したらどうするつもりなのか――どうするつもりなのかというのはすなわち進路をどうするつもりなのかということですが――について後で聞こうと思いました。そんなことを考えていたら上り坂を上りきっていて、星ヶ丘マタニティ病院の前にある小さな公園に着いたのでした。公園の中心にある背の高い時計を確認すると待ち合わせの約束をした七時まではあと八分ほどありました。
 夏の終わりとも秋の始まりとも言い切ることのできないこの季節のこの時間の公園には学校帰りのカップルなどがいてもよさそうなものですが、この日のこの時間、このさびれたマタニティ公園には僕以外誰もいませんでした。
 バネで前後に揺れるパンダの遊具に座ってかすかに揺れながら携帯電話を眺めつつ彼女を待っていたのですが、いつのまにか彼女は僕の後ろにいて、僕の携帯電話の画面を覗いていたのでした。いつから居たの、と僕が問いかけると、
 「にやけながら病院のほうを見上げてパンダと一緒に揺れ始めたくらいから」
 と笑って言うのでした。僕は病院のほうを見上げていたつもりもにやけていたつもりもなかったのですが、その点については反応しないことにしました。
 それから僕たちはパンダからベンチに移動しておしゃべりをしました。しばらくして――素敵な時間というのは短く感じられるものですが、「しばらくして」というのが適切であるくらいの時間しか過ぎていないように僕には感じられていたのです――背の高い時計を見るともう二十三時十分でした。そろそろ帰らなければなりません。僕たちは
 「もう帰らないといけないね」
 「そうだね」
 と言い合い、抱きしめたい時間が終わるのを惜しむときに特有のしばしの沈黙が流れました。彼女は
 「あー、楽しかった」
 と言って立ち上がりました。僕も、そうだね、と言って立ち上がり、二人で公園の外へ向かいました。公園を出て大通りを少し歩いてから彼女は
 「じゃあ私こっちだから」
 といって僕の家とは反対方向へ歩いて行き、角のところで僕に手を振り曲がって行きました。僕は、じゃあね、と言い、彼女が角を曲がりきるまで彼女を見送り、彼女がこっちを振り返ったのと同時に手を振り、彼女が見えなくなってから自転車に乗りました。そして星ヶ丘から猫ヶ洞へ続くゆるやかな下り坂を下って行ったのです。
 それ以来、僕は彼女の姿を見ていません。彼女と会えなくなるまで僕はその事実に気がつかなかったのですが、僕は彼女の名前も住所も知りませんでした。彼女と最後に会う直前に僕は彼女の進路について思案していましたがそれはおかしな話で、夜の公園では決してそのような話題になることはありませんでした。ではどんなことを僕たちは話していたのでしょうか。もうお気づきのことかもしれませんが、それを僕は思い出せません。僕は学校での彼女のクラスも知りませんし、最後に会ったあの日以前から僕たちは知りあいであった気がしていたのですが、あの日以前の彼女に関することはもちろん何も思い出せません。友人らにこんな女性がいなかったかと尋ねようにも彼女の容姿すら僕は思い出すことができないのです。唯一、あの日僕が女性と一緒にいたところを目にしていないかという形の問いを友人らに投げかけることはできましたが、もちろん成果はありませんでした。僕が彼女について覚えていることといったら、先ほど描写したことがすべてで、具体的なことはもう何も思い出すことができません。ただあの夜、楽しかった、と彼女が言い、僕はその通りだと感じたという記憶だけが残っているのです。
 彼女はいったい何だったのでしょう。疑問形で問いかけましたが、僕にはめずらしくその答えが分かっています。これはあまりに自明なので言うのに気が引けるのですが、その答えとは、彼女は神様であるということです。神様というのがいるとしたら――そして結論から言って神様のようなものはいるのですが――それは彼女のような存在だと思うのです。それは無神論者が信じる神様であり、誰もがそれに対して祈ったことのある神様のことです。神秘としての神様、僕たちが手放しで抱きしめ、また僕たちを抱きしめる神様というのは彼女のことではないでしょうか。
 みんな今まで人生のどこかで彼女に出会っていませんか。僕がこの文章を書いたのは彼女の存在を誰かと共有して確かめたかったからです。もちろん僕に起こったことがすべてに妥当するなどとは思っていませんが、こと彼女の存在に関してはそう思われてしまうだけの力が彼女にはあったのです。

ドライ花嫁

リップヴァンウィンクルの花嫁を観た。

www.youtube.com

SNSで知り合った青年と結婚した派遣教員・七海が、新婚早々夫に浮気された揚げ句、家を追い出され、苦境に立たされたことから結婚式の代理出席、月100万円を稼げる住み込みメイドなど、奇妙なバイトを始める。

というのがあらすじというか、言ってもいい範囲の話。












なんとなく思いつきで、実家に帰った。

時間のあるうちは、青春18切符を使って、
本州を這うように、ゆっくりと帰ることにしている。

そんな道中で以前から会ってみたかった
SNSで知り合った女の子と飲むことになった。

電車旅の疲れや、飲みの楽しさで、帰るのが面倒になった。
こんな時代だから、漫喫にでも泊まって、やり過ごせばいいと思った。

そしたらSNSで知り合った女の子は朝まで付き合ってくれると言った。

漫喫に入って映画を観た。
リップヴァンウィンクルの花嫁』

SNSで知り合った女の子と、SNSで知り合った人たちが結婚する映画を。


だからといって、目を瞠るほどの意味が生まれたわけではない。
しかし、何もないわけはなく、3D映画を観るようなもので、ただ観るのではなく、
作品を違う角度から楽しむためのギミックとなったような気がした。

この作品は端的に言って、自分の今まで観た邦画の中で最も好きな作品だった。

作品の中で、くらげを愛でて眺めるシーンがある。
水槽のなかを漂うくらげは、触手が浮遊している。
くらげの神秘性に頼って、映像そのものを美しく仕上げている風の
映像をよく目にすることがあるが、これはそんなものでは終わらせていない。

くらげの浮遊感を楽しんでいるのは人だが、
それ以上にくらげもまた浮遊しながら、人が生きている様子を
楽しんでいるかのように思わせるカメラワークなのだ。

それはわたしたちが、何も考えず漂うくらげを、どこか見下して、
くらげになりたいと、子供に戻りたいと思うような感覚でみているように、
くらげもまた、私たちが苦しむ様子を、見下しながらもそうありたいと眺めるような
ものであるように思われた。

ふたりの女性がベッドの上で向かいあっているシーンでは、
死にゆく一人が、もう一人の後頭部に腕を回して、顔を抱えている。
ふたりの顔と、後頭部へ伸ばした腕のシルエットは、さながらハートマークそのもので、
ふたりの愛が時間の蓄積と共に、命の擦り減りと共に完成されつつあることを示しているようだ。

わたしの愛も、ふたりで完成すれば、どれだけしあわせだっただろう。
いまとなっては窒息してしまったそれは、わたしのなかで腐っていくが、
外に出ることなく消えていった精子のように、都合よくわたしの糧となって
いってはくれないだろうか。
切なる願いをここに託して。


遅くなってごめん。きみ。

特に言いたいことも、考えていることもなく、更新を怠ってしまった。

言いたいことはあったかもしれないが、わざわざ筆を持つほどでもなかったし、
言ったら流石に恥ずかしいとおもったのだろう。

一つ上の文に関して、思うことがある。

僕は今、パソコンで文字を書いている。
つまり、キーボードを打っている。

そうした状態なのに、文章を書くことについて、
筆を持つとか、言いたいとか、表記してもいいのか、
毎度更新のたびに思う。

でも、それをわざわざ触れていくスタンスももう飽きたので、
開き直ろうとおもったけれど、一回は自分でも触れておこうと思ったのであった。



昨日は、熱に浮かされていた。
38.8℃だった。
全身が震え、心臓が叫んでいた。

寒気がして仕方がないのに、熱くてたまらない。

熱にうかされるとうなされるの語用はしばしば問題になるけど、
浮かされるが正しいらしいですよ。
すぐ忘れるので、ここで覚えておきましょう。




社会にいじめられて久しい。
どうしたららいじめはなくなるのか。
個人のレベルでお答えください。


だれでも