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bohems'

複数人による交換日記

失語

I feel ashamed. I’m totally exhausted. There are no birds and dogs but cats in this area. You might think it is pleasing that a stray cat strolls in a boring alley. It would be also, however, an amplifier that make a situation emptier to see a cat on a warm day.

The truth of the matter is we don’t want and need to read any kind of story. Recently I don’t guess even whether I am hungry or not. Not any kind of story is here because I’m caring that. It is bothering to be stuck in the school rule that we must put one subject in one sentence.

I’d rather suppose when two people, more attractive one and less, get conflicted about something or about themselves, the one at fault must be the less attractive. It might be cruel and unjustifiable but a fact gives proof of this: middle-aged man is getting milder and milder to a girl in an entirely bad sense. I cannot bear to watch this state of affairs.

The grass in the park is too angelic in the early afternoon to light a cigarette, so no one gets his hand put on a pocket. I lose my words. It is not good that recent life is too full of reality. I can't help wondering what everyone is doing by themselves, but perhaps they are not alone.

Can coffee on the desk is tepid.

2週間の誕生日

思えば、目が醒める瞬間というのは、とても不思議な感覚だ。
瞼を開いて、目の前の光景を認識するよりも早く、何か他のことを考えている。
それは、今日が何月何日の何曜日だとか、仕事に行きたくないとかだったりするけれど、
起きるまでの思考の断絶とは裏腹に、「仕事行きたくないからもう少しだけ眠りたいからあと5分寝たいけれど、そうすると7時52分の電車に乗ることができなくなる、だけどその5分は歩行速度や準備のクオリティの操作でカバーしうるのではないか、それならば、むしろあと10分寝られるではないか、寝よう」といったような先を計算した一連の複雑な思考であったりする。
仕事のない日であれば、形而上学的な問いを、形成していたりもする。それまで、社会から切り離されていた分、余計なしがらみにとらわれず、純粋な概念で思考が組み立てられたりするというものだ。

目が醒めるというのは、それまで、主客未然のいわゆる無の中にあるとも思しき状態にあったはずなのに、突然の物理空間に投げ出されてしまうということだ。そんな状態に疑問を抱くこともせず、目を醒まし、眠っている間にも客観的にあったと想定される自分を取り巻く状態を確認すべく、携帯の画面に目を向ける。いわば、断絶前と後の擦り合わせだ。

そうして日付や時間や自分宛の連絡を確認していると、今日が5月2日であることに意識が向かった。この時、今日が5月2日であるということより、明日が5月3日であることに意識はあった。5月3日は10年ほど前、中学生であった時に恋をしていた女の子の誕生日なのだ。今となってはどうでもいいことであるが、当日ではないにもかかわらず、その日を意識することに興味がわく。これは、おそらく、好きな人の誕生日を祝うことは、当日の話ではなく、その日に至るまでの計略に力点が置かれていることを意味しているのだ。

誕生日というのは、門戸の開放されたイベントである。好きな人がたとえ、友達の恋人でも、片思いでも、上司でも、少し遠い関係の人でも、誕生日という理由をつけて、話しかけられるし、プレゼントを贈ることもできる。それはつまり、好意を、祝うことは人として自然なことであるというような社会性に偽装させて押し付けることができるということであり、誕生日は数少ない合法的に接触できる機会なのだ。それゆえに、不器用に片思いをしている自分にとってもまた、貴重な機会であり、当日を前に、何をあげたらよいかとか、どのタイミングならば会えるだろうか、と案じていたのだった。テストでいい点を取るには、一夜漬けではダメで、2週間前から準備しておく必要があると言われていたが、誕生日に好印象を抱いてもらうためには、2週間前くらいから考えておく必要があった。いやほんとはなかった。だけれど、楽しみで仕方がなかった。それは、体をなさないデートのようなものだった。2週間という長い間、いつもより想いを馳せ、祝う瞬間を永遠のつもりで楽しんだ。永遠に感じる一瞬という表現はよく目にするが、自分はあまりそれを感じたことはない。ただ、こうして10年経った今でも、そうした出来事を反芻していることを考えると、幸せな瞬間として記憶が形成され、反芻されることで、永遠を作り上げているのかもしれない。

準備を含めた2週間の誕生日は、実は永遠を意識する媒体だったのだ。




だったのか?

ピーチジョン

 むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
 「幸せが刹那的でしかあり得ないものだとしても,慢性的な不安は消し去りたいよ」と言っておじいさんは山へしばかりに、「友達には終わりがこないのだとしたら,私たちがこの関係を選んだのは失敗だったのかしらね」と言っておばあさんは川へせんたくに行きました。
 「共犯関係で落ちていくような恋愛しかしてこなかった報いかしらね」と呟きながらおばあさんが川でせんたくをしていると、ドンブラコ、ドンブラコと、大きな桃が流れてきました。
 「一度も手に入れたことのないものを取り返そうとしているような人生ね」と思いながらおばあさんは大きな桃をひろいあげて、家に持ち帰りました。
 そして、「僕が誰かに思い出された時にだけ光るランプが欲しい」と言い続けているおじいさんと「生まれた時から独身のはずなのに人はいつから『独身』になるのでしょうね」と考えているているおばあさんが桃を食べようと桃を切ってみると、なんと中から元気の良い男の赤ちゃんが「見つけられるためにはそこに居ないといけないんだよ」と言って飛び出してきました。
 子どものいなかったおじいさんとおばあさんは、大喜びです。
 桃から生まれた男の子を、「不誠実を日常で濾して飲み続けているけれど,もう限界かもしれない」と思い始めていたおじいさんと「前向きになった途端不慮の事故で死ぬ気がするから前向きになれないのあたし」が口癖だったおばあさんは桃太郎と名付けました。
 「月とか青とか光とか,恋とか夢とか少女とか,そういうつよいことばを使っても,きれいなうたを生みだせる,律儀なひとにあこがれる」と言いながら桃太郎はスクスク育って、やがて強い男の子になりました。
    桃太郎の生きる世界には鬼がいなかっので彼は鬼退治にはいきませんでした。

 

めでたしめでたし

 

おしまい

こどものきみには、あまい煙を燻らせて

ぼくはSNSを通して人と関わりを持つことが好きだ。
これは骨身に染みついた自分の寂しさのせいだと思う。

高校に上がって、携帯を手にして、寂しさのはけ口を見つけた。
当時、若年層の間では、携帯で簡単に作れるホームページが流行っていた。
そこで自分の話をして、社会に対して釈明をしていた。
誰かがぼくの釈明を見ているかもしれないと思うと、救われた。
思えばこの時から、ぼくのSNSを通して人を求める性は疑いようもなく存在していた。



先日、SNSを通して知り合った年下の女から、
「妊娠したかもしれない」と連絡がきた。

もちろん、ぼくはその女と肉体関係を持っていない。
ぼくの子ではない。
単なる相談だ。

聞けば、お互いに恋心を抱いているにもかかわらず、結ばれることのない恋人がいるらしい。
当人はその人物のことを、セフレと呼んでいた。

なぜふたりはそうした関係に留まっているのかというと、セフレはどうやら結婚しているとのこと。
つまり、ふたりは不倫関係にあった。

しかし、性欲とも恋心ともしれない何かがふたりを縛り付け、
ついにはセフレは女と一緒に過ごすための部屋を借りていたらしい。

そうしてふたりは部屋にいる間は常に情事に耽っていた。
セフレは「気持ちよくないから」という理由で、避妊具をつけなかった。

その結果が、妊娠だった。

軽蔑を禁じ得なかった。

一通り罵倒したのちに、それでも、相談に乗った。

すぐにおろすことになったけれども、その選択があまりに当たり前になされ、
命の軽視がなされていたように思える。

確かに生んだところで、こどもは十中八九幸せになれないことは見えている。
それゆえに、最も正しそうな判断ではあるが、
幾ばくか、感傷的な振る舞いがあってもよかった気もする。

そして、最初の連絡を受けて数日後、こどもをおろしたと報告があった。

先に書いた感傷的振る舞いに関しては自分も該当していて、
他人事とはいえ、哀しみを以て命を排除することに向き合う必要があるように思えた。

半ば強制的に、ぼくはおなかのこを弔おうと思った。

ぼくの家には線香はないので、甘い香りを放つお香を焚いて、この来世に祈りを捧げた。

ぼくの祈りは届くのか。
届いたとして言葉は通じるのか。
女をゆるすことができるのか。

なにもわからなかった。






最近、どうにも文章を書くことが億劫になってしまった。
それはおそらく、文の構成や表現の稚拙さに、態度のような形で
現れてしまっているとおもう。

気が向いたらこの文も、推敲して、もう少し読めるものにしておきたいとおもう。

取り急ぎでもないけれど、そんなかんじで次はきみ。

夜の公園

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    本当にあった話

 高校二年生の頃、僕は他の人と同じで学校からの帰り道でよく、人は何のために生きているのだろう、とか、自分がいなくなったって何も変わらないじゃないか、などと考えてしまう癖がありました。「考えてしまう」とは言っても何か哲学的な議論を展開できる能力は僕にはなく、ただ脳内に疑問形を羅列していただけでした。そして、そんなことを考えているときに、彼女はきまって
 「そんなことで悩んでたってしょうがないじゃない」
 とか、
 「そんなこと考えて楽しい?」
 などと僕に言ってくるのです。その日も僕がそんなようなことを考えていると彼女は、「これあげる」と言って、ほとんど残っていないレモンティーの紙パックを僕の自転車のカゴに入れて走って行ってしまいました。僕は、捨てるのが面倒なだけでしょ、と声に出しかけましたが、彼女はもうこちらを振り返りそうもなく離れていってしまっているので、声に出すのを止め思うだけに留めました。
 わずかながらに液体の入った紙パックを自転車のカゴに入れたまま、僕は星ヶ丘から猫ヶ洞まで続くゆるやかな下り坂をペダルに足をかけずに進んで行きながら、先ほど彼女が駆けていった方向は彼女がいつも電車に乗る駅と反対方向であったことに気付きました。どこに向かって行ったのかに思いをめぐらせてみても、アテがなさ過ぎて思考はまったく続かなかったのですが、気がつくと坂を下り終えていて、自宅に着いたのでした。自転車を降りて紙パックの中のレモンティーを飲み干して家に入り、まず紙パックを水道水ですすいでからハサミで開き、キッチンにかかっているビニル袋にその開いた紙パックを入れました。僕の家ではそうすることになっていたのです。壁にかかった時計は十六時五十分を指していたように思います。
 僕の家では夜ご飯は十八時と決まっていて、この日も十八時に母親の作った何らかの料理を食べて十八時四十分には家を出ました。彼女と星ヶ丘の公園で会う約束をしていたのです。僕は猫ヶ洞から星ヶ丘に続くゆるやかな上り坂をペダルをこいで進みつつ、彼女は高校を卒業したらどうするつもりなのか――どうするつもりなのかというのはすなわち進路をどうするつもりなのかということですが――について後で聞こうと思いました。そんなことを考えていたら上り坂を上りきっていて、星ヶ丘マタニティ病院の前にある小さな公園に着いたのでした。公園の中心にある背の高い時計を確認すると待ち合わせの約束をした七時まではあと八分ほどありました。
 夏の終わりとも秋の始まりとも言い切ることのできないこの季節のこの時間の公園には学校帰りのカップルなどがいてもよさそうなものですが、この日のこの時間、このさびれたマタニティ公園には僕以外誰もいませんでした。
 バネで前後に揺れるパンダの遊具に座ってかすかに揺れながら携帯電話を眺めつつ彼女を待っていたのですが、いつのまにか彼女は僕の後ろにいて、僕の携帯電話の画面を覗いていたのでした。いつから居たの、と僕が問いかけると、
 「にやけながら病院のほうを見上げてパンダと一緒に揺れ始めたくらいから」
 と笑って言うのでした。僕は病院のほうを見上げていたつもりもにやけていたつもりもなかったのですが、その点については反応しないことにしました。
 それから僕たちはパンダからベンチに移動しておしゃべりをしました。しばらくして――素敵な時間というのは短く感じられるものですが、「しばらくして」というのが適切であるくらいの時間しか過ぎていないように僕には感じられていたのです――背の高い時計を見るともう二十三時十分でした。そろそろ帰らなければなりません。僕たちは
 「もう帰らないといけないね」
 「そうだね」
 と言い合い、抱きしめたい時間が終わるのを惜しむときに特有のしばしの沈黙が流れました。彼女は
 「あー、楽しかった」
 と言って立ち上がりました。僕も、そうだね、と言って立ち上がり、二人で公園の外へ向かいました。公園を出て大通りを少し歩いてから彼女は
 「じゃあ私こっちだから」
 といって僕の家とは反対方向へ歩いて行き、角のところで僕に手を振り曲がって行きました。僕は、じゃあね、と言い、彼女が角を曲がりきるまで彼女を見送り、彼女がこっちを振り返ったのと同時に手を振り、彼女が見えなくなってから自転車に乗りました。そして星ヶ丘から猫ヶ洞へ続くゆるやかな下り坂を下って行ったのです。
 それ以来、僕は彼女の姿を見ていません。彼女と会えなくなるまで僕はその事実に気がつかなかったのですが、僕は彼女の名前も住所も知りませんでした。彼女と最後に会う直前に僕は彼女の進路について思案していましたがそれはおかしな話で、夜の公園では決してそのような話題になることはありませんでした。ではどんなことを僕たちは話していたのでしょうか。もうお気づきのことかもしれませんが、それを僕は思い出せません。僕は学校での彼女のクラスも知りませんし、最後に会ったあの日以前から僕たちは知りあいであった気がしていたのですが、あの日以前の彼女に関することはもちろん何も思い出せません。友人らにこんな女性がいなかったかと尋ねようにも彼女の容姿すら僕は思い出すことができないのです。唯一、あの日僕が女性と一緒にいたところを目にしていないかという形の問いを友人らに投げかけることはできましたが、もちろん成果はありませんでした。僕が彼女について覚えていることといったら、先ほど描写したことがすべてで、具体的なことはもう何も思い出すことができません。ただあの夜、楽しかった、と彼女が言い、僕はその通りだと感じたという記憶だけが残っているのです。
 彼女はいったい何だったのでしょう。疑問形で問いかけましたが、僕にはめずらしくその答えが分かっています。これはあまりに自明なので言うのに気が引けるのですが、その答えとは、彼女は神様であるということです。神様というのがいるとしたら――そして結論から言って神様のようなものはいるのですが――それは彼女のような存在だと思うのです。それは無神論者が信じる神様であり、誰もがそれに対して祈ったことのある神様のことです。神秘としての神様、僕たちが手放しで抱きしめ、また僕たちを抱きしめる神様というのは彼女のことではないでしょうか。
 みんな今まで人生のどこかで彼女に出会っていませんか。僕がこの文章を書いたのは彼女の存在を誰かと共有して確かめたかったからです。もちろん僕に起こったことがすべてに妥当するなどとは思っていませんが、こと彼女の存在に関してはそう思われてしまうだけの力が彼女にはあったのです。

ドライ花嫁

リップヴァンウィンクルの花嫁を観た。

www.youtube.com

SNSで知り合った青年と結婚した派遣教員・七海が、新婚早々夫に浮気された揚げ句、家を追い出され、苦境に立たされたことから結婚式の代理出席、月100万円を稼げる住み込みメイドなど、奇妙なバイトを始める。

というのがあらすじというか、言ってもいい範囲の話。












なんとなく思いつきで、実家に帰った。

時間のあるうちは、青春18切符を使って、
本州を這うように、ゆっくりと帰ることにしている。

そんな道中で以前から会ってみたかった
SNSで知り合った女の子と飲むことになった。

電車旅の疲れや、飲みの楽しさで、帰るのが面倒になった。
こんな時代だから、漫喫にでも泊まって、やり過ごせばいいと思った。

そしたらSNSで知り合った女の子は朝まで付き合ってくれると言った。

漫喫に入って映画を観た。
リップヴァンウィンクルの花嫁』

SNSで知り合った女の子と、SNSで知り合った人たちが結婚する映画を。


だからといって、目を瞠るほどの意味が生まれたわけではない。
しかし、何もないわけはなく、3D映画を観るようなもので、ただ観るのではなく、
作品を違う角度から楽しむためのギミックとなったような気がした。

この作品は端的に言って、自分の今まで観た邦画の中で最も好きな作品だった。

作品の中で、くらげを愛でて眺めるシーンがある。
水槽のなかを漂うくらげは、触手が浮遊している。
くらげの神秘性に頼って、映像そのものを美しく仕上げている風の
映像をよく目にすることがあるが、これはそんなものでは終わらせていない。

くらげの浮遊感を楽しんでいるのは人だが、
それ以上にくらげもまた浮遊しながら、人が生きている様子を
楽しんでいるかのように思わせるカメラワークなのだ。

それはわたしたちが、何も考えず漂うくらげを、どこか見下して、
くらげになりたいと、子供に戻りたいと思うような感覚でみているように、
くらげもまた、私たちが苦しむ様子を、見下しながらもそうありたいと眺めるような
ものであるように思われた。

ふたりの女性がベッドの上で向かいあっているシーンでは、
死にゆく一人が、もう一人の後頭部に腕を回して、顔を抱えている。
ふたりの顔と、後頭部へ伸ばした腕のシルエットは、さながらハートマークそのもので、
ふたりの愛が時間の蓄積と共に、命の擦り減りと共に完成されつつあることを示しているようだ。

わたしの愛も、ふたりで完成すれば、どれだけしあわせだっただろう。
いまとなっては窒息してしまったそれは、わたしのなかで腐っていくが、
外に出ることなく消えていった精子のように、都合よくわたしの糧となって
いってはくれないだろうか。
切なる願いをここに託して。


遅くなってごめん。きみ。