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複数人による交換日記

photos 6.17.

 

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高円寺

 

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時計 

 

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夕日の街灯 

 

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街灯

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光漏れ

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電気

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おっさん

 

 

 

ケーキが食べたい

 

先日友人から、ある漫画を見せられた。

 

浮気性な彼氏に悩まされる女(?)と、

その話を聞く女がいた。

 

聞いている女は、ダイエットの例を取る。

 

「ダイエットをしている花子さんがいます。

ケーキが好物なんだけど、我慢の毎日です。

ケーキは我慢してるけど、その代わり他の違うものを食べるのがやめられない。

いつも頭の中は食べることでいっぱい。

花子さんはどうしたらいいかしら?

ちゃんとケーキを食べること。

やみくもに食べるのではないの。

いっちばーんおいしそうなのをちゃーんと選んで。

テーブルも綺麗にセッティングして、テレビも消す。

そしていただく!

あら不思議。

過食がピタッと止まるのよ。

彼の悩みも、一番好きなコとちゃんと恋愛しないから全部なぁなぁなんでしょ。

だからいつまでたっても満たされないで、あっちこっちフラフラ。

今の彼って、ダラダラ食べ続けるおデブちゃんと変わらないわね。」

 

 

なんの漫画か知らないけれど、自分にも該当することがあると思った。

 

今日は職場の同僚と街をブラブラした。

自分の話を丁寧に聞いてくれる人と、

自分の好きなことばかりして、一日楽しく過ごした。

それでも、まだ何か足りなくて、得体の知れない欠落感があった。

 

この漫画のダイエットの例のようなものなのかも知れない。

 

自分の性質の最たるものは寂しがりだ。

人と接することが大好きだ。

その中でも今の大好物は、昔の恋人だ。

今は我慢している。

本当は、お互いが好意を抱いて、

健やかな気持ちで、あうことができたら、

他の人に目もくれなくなるのはわかっている。

 

だけど、さっきの花子さんと違って、ケーキは食べられなくて、

さっきの彼も、僕と同じで、ダラダラと違うものを求めざるを得なくなっている。

 

本当は今日は楽しくて、お腹いっぱいの胃もたれ気味なのに。

まだ食べたいと思ってしまう。

常に脳裏には本当の欲望と理性の騙し合い。

 

これに限らず、叶わないものごとに関して、常に脳は騙そうとしてくる。

自分詐欺師。

騙されててもいいのかも知れないし、とっ捕まえようとするべきなのかも知れないし。

 

自己防衛のための脳内詐欺といえば、中島敦の『山月記』のような

防衛機制をメタ的に言及するようなことはやめてほしい。

僕たちはあれを読むことで、防衛手段を一つ失ってしまったのだ。

やめてくれよ。

 

それではまたね。

 

 

 

 

モニャモニャ

 

僕たちのように、表現に関心を持つものは、

情報の受容者が楽に受容できるように、

その伝達を楽にするような勤めかたをしている。

 

 

何かを理解する時、他の人が苦労しないように、代わりに苦労してあげるのが、

僕たちの役割だ。

 

みんながわかるものが何かをわかって、発信者と伝えたいものと受信者の間に入って、

えいっと、伝えたいものの形を変える。

 

それが難しくて、まだまだ修行が足りないので、

頑張ります。

 

 

2週間の誕生日

思えば、目が醒める瞬間というのは、とても不思議な感覚だ。
瞼を開いて、目の前の光景を認識するよりも早く、何か他のことを考えている。
それは、今日が何月何日の何曜日だとか、仕事に行きたくないとかだったりするけれど、
起きるまでの思考の断絶とは裏腹に、「仕事行きたくないからもう少しだけ眠りたいからあと5分寝たいけれど、そうすると7時52分の電車に乗ることができなくなる、だけどその5分は歩行速度や準備のクオリティの操作でカバーしうるのではないか、それならば、むしろあと10分寝られるではないか、寝よう」といったような先を計算した一連の複雑な思考であったりする。
仕事のない日であれば、形而上学的な問いを、形成していたりもする。それまで、社会から切り離されていた分、余計なしがらみにとらわれず、純粋な概念で思考が組み立てられたりするというものだ。

目が醒めるというのは、それまで、主客未然のいわゆる無の中にあるとも思しき状態にあったはずなのに、突然の物理空間に投げ出されてしまうということだ。そんな状態に疑問を抱くこともせず、目を醒まし、眠っている間にも客観的にあったと想定される自分を取り巻く状態を確認すべく、携帯の画面に目を向ける。いわば、断絶前と後の擦り合わせだ。

そうして日付や時間や自分宛の連絡を確認していると、今日が5月2日であることに意識が向かった。この時、今日が5月2日であるということより、明日が5月3日であることに意識はあった。5月3日は10年ほど前、中学生であった時に恋をしていた女の子の誕生日なのだ。今となってはどうでもいいことであるが、当日ではないにもかかわらず、その日を意識することに興味がわく。これは、おそらく、好きな人の誕生日を祝うことは、当日の話ではなく、その日に至るまでの計略に力点が置かれていることを意味しているのだ。

誕生日というのは、門戸の開放されたイベントである。好きな人がたとえ、友達の恋人でも、片思いでも、上司でも、少し遠い関係の人でも、誕生日という理由をつけて、話しかけられるし、プレゼントを贈ることもできる。それはつまり、好意を、祝うことは人として自然なことであるというような社会性に偽装させて押し付けることができるということであり、誕生日は数少ない合法的に接触できる機会なのだ。それゆえに、不器用に片思いをしている自分にとってもまた、貴重な機会であり、当日を前に、何をあげたらよいかとか、どのタイミングならば会えるだろうか、と案じていたのだった。テストでいい点を取るには、一夜漬けではダメで、2週間前から準備しておく必要があると言われていたが、誕生日に好印象を抱いてもらうためには、2週間前くらいから考えておく必要があった。いやほんとはなかった。だけれど、楽しみで仕方がなかった。それは、体をなさないデートのようなものだった。2週間という長い間、いつもより想いを馳せ、祝う瞬間を永遠のつもりで楽しんだ。永遠に感じる一瞬という表現はよく目にするが、自分はあまりそれを感じたことはない。ただ、こうして10年経った今でも、そうした出来事を反芻していることを考えると、幸せな瞬間として記憶が形成され、反芻されることで、永遠を作り上げているのかもしれない。

準備を含めた2週間の誕生日は、実は永遠を意識する媒体だったのだ。




だったのか?

ピーチジョン

 むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。
 「幸せが刹那的でしかあり得ないものだとしても,慢性的な不安は消し去りたいよ」と言っておじいさんは山へしばかりに、「友達には終わりがこないのだとしたら,私たちがこの関係を選んだのは失敗だったのかしらね」と言っておばあさんは川へせんたくに行きました。
 「共犯関係で落ちていくような恋愛しかしてこなかった報いかしらね」と呟きながらおばあさんが川でせんたくをしていると、ドンブラコ、ドンブラコと、大きな桃が流れてきました。
 「一度も手に入れたことのないものを取り返そうとしているような人生ね」と思いながらおばあさんは大きな桃をひろいあげて、家に持ち帰りました。
 そして、「僕が誰かに思い出された時にだけ光るランプが欲しい」と言い続けているおじいさんと「生まれた時から独身のはずなのに人はいつから『独身』になるのでしょうね」と考えているているおばあさんが桃を食べようと桃を切ってみると、なんと中から元気の良い男の赤ちゃんが「見つけられるためにはそこに居ないといけないんだよ」と言って飛び出してきました。
 子どものいなかったおじいさんとおばあさんは、大喜びです。
 桃から生まれた男の子を、「不誠実を日常で濾して飲み続けているけれど,もう限界かもしれない」と思い始めていたおじいさんと「前向きになった途端不慮の事故で死ぬ気がするから前向きになれないのあたし」が口癖だったおばあさんは桃太郎と名付けました。
 「月とか青とか光とか,恋とか夢とか少女とか,そういうつよいことばを使っても,きれいなうたを生みだせる,律儀なひとにあこがれる」と言いながら桃太郎はスクスク育って、やがて強い男の子になりました。
    桃太郎の生きる世界には鬼がいなかっので彼は鬼退治にはいきませんでした。

 

めでたしめでたし

 

おしまい

こどものきみには、あまい煙を燻らせて

ぼくはSNSを通して人と関わりを持つことが好きだ。
これは骨身に染みついた自分の寂しさのせいだと思う。

高校に上がって、携帯を手にして、寂しさのはけ口を見つけた。
当時、若年層の間では、携帯で簡単に作れるホームページが流行っていた。
そこで自分の話をして、社会に対して釈明をしていた。
誰かがぼくの釈明を見ているかもしれないと思うと、救われた。
思えばこの時から、ぼくのSNSを通して人を求める性は疑いようもなく存在していた。



先日、SNSを通して知り合った年下の女から、
「妊娠したかもしれない」と連絡がきた。

もちろん、ぼくはその女と肉体関係を持っていない。
ぼくの子ではない。
単なる相談だ。

聞けば、お互いに恋心を抱いているにもかかわらず、結ばれることのない恋人がいるらしい。
当人はその人物のことを、セフレと呼んでいた。

なぜふたりはそうした関係に留まっているのかというと、セフレはどうやら結婚しているとのこと。
つまり、ふたりは不倫関係にあった。

しかし、性欲とも恋心ともしれない何かがふたりを縛り付け、
ついにはセフレは女と一緒に過ごすための部屋を借りていたらしい。

そうしてふたりは部屋にいる間は常に情事に耽っていた。
セフレは「気持ちよくないから」という理由で、避妊具をつけなかった。

その結果が、妊娠だった。

軽蔑を禁じ得なかった。

一通り罵倒したのちに、それでも、相談に乗った。

すぐにおろすことになったけれども、その選択があまりに当たり前になされ、
命の軽視がなされていたように思える。

確かに生んだところで、こどもは十中八九幸せになれないことは見えている。
それゆえに、最も正しそうな判断ではあるが、
幾ばくか、感傷的な振る舞いがあってもよかった気もする。

そして、最初の連絡を受けて数日後、こどもをおろしたと報告があった。

先に書いた感傷的振る舞いに関しては自分も該当していて、
他人事とはいえ、哀しみを以て命を排除することに向き合う必要があるように思えた。

半ば強制的に、ぼくはおなかのこを弔おうと思った。

ぼくの家には線香はないので、甘い香りを放つお香を焚いて、この来世に祈りを捧げた。

ぼくの祈りは届くのか。
届いたとして言葉は通じるのか。
女をゆるすことができるのか。

なにもわからなかった。






最近、どうにも文章を書くことが億劫になってしまった。
それはおそらく、文の構成や表現の稚拙さに、態度のような形で
現れてしまっているとおもう。

気が向いたらこの文も、推敲して、もう少し読めるものにしておきたいとおもう。

取り急ぎでもないけれど、そんなかんじで次はきみ。