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複数人による交換日記

酔筆

 1日を終わらせるために酒を飲む

二階堂2杯と百年の孤独6杯で

 

 

 

 

次のソナタ

 

エソラエ

ふと餃子がたべたくなって、近所のスーパーまで、材料を買いに行った。

ちょっと多すぎかな、ってくらい材料を買ってしまうきらいがある。

きっと7人前くらい買った。餃子が食べたかったのは事実だけれど、本当は外に出ておきたくて、餃子を口実にした。

そんなわけだから、ちょっとわざとらしいくらいに景色を眺めて歩いた。

空が綺麗だった。

なにかの絵画でみたような印象だった。

つまりは、油絵のタッチで、雲が明確に線引きされ、そこにあるのはただの水蒸気のかたまりではなく、生クリームのかたまりのようだった。

空が絵のようだった。

'絵空事'という言葉がある。

kotobank.jp

ということらしい。

空の絵を描いて、そのままだと味気ないから、少し脚色してけばけばしくさせることをいうのだろう。

空の絵が、絵空事。

 

餃子のときの空は、絵のような空だった。

でも、もともとは絵空事の説明にもあるように、誇張されて、現実には起こらないであろうことを言い表すのが、絵空事の役目であって、落とし込む方向が逆行している。

空が絵になるのであり、絵が空になるのではない。

しかし、餃子のくだりでいうならば、

空があって、その空が絵になり、その絵が空になった。

煩雑なインプットとアウトプットの連続の結果残ったのは、現実に生まれた絵空だった。

前稿が全く踏襲されていないけれど、いいよね。ショートコントつくらへん?

次はそち。

 

 

 

 

 

 

 

 

ジッタリンジンのお湯割り

目覚まし時計の音がトカトントンだから何にも夢中になれない女が昼からジッタリンジンのお湯割りを飲んで眼精疲労の千駄木ワルツを踊っている。

 

中島らものエッセイ集『僕にはわからない』 のなかに「人は死ぬとどうなるのか」という5ページの文章がある。その文章では「『生』の対立概念として「死」というものを持ってくるから話がおかしくなる」というところから話が始まってバタイユの「連続」と「不連続」を引き合いに出して最終的に「我々の死、つまり個々の不連続が全体の連続を支えているのだ。その意味で我々は『永遠に死なない』と考えても誤りではない」といったことが述べられたりしている。この「『永遠に死なない』と考えても誤りではない」という捉え方を実は気に入っている。もちろんこの話はひとつ前のさみしい文章にて書かれた問題と前提においてすれ違ってはいるけれども、さみしい投稿を読んで真っ先にこの「永遠に死なない」話が脳裏を去来去来去来去来去来した。

 


桂枝雀 中島らも 対談

この動画の序盤で「永遠に死なない」話と同じようなことを言っている。でもこれは「あんなものはタダでよいのだ」が好き。
また同じ文章のなかで、「僕という個の存在は、僕の精子が一人の女性の卵子と結合した瞬間にその存在意義を完遂している」という箇所があって、ここに至る道筋は面倒なので詳述しない(のでこれだけ読んでも汲みがたいだろうけれどけど、これは全体と個、種と個という見方からはその通りともいえる(「その通りともいえる」というのはなんて卑怯な云い方deshooo)のだけれど、これは結構残酷だよナア(じゃあ「結合」しない個の意義は?)と思いかけるけど、そういう個も無数の不連続のうちの一つにカウントされて回収されるのだな、でも!、という話でしたケド。次は汝。

 

僕にはわからない (講談社文庫)

僕にはわからない (講談社文庫)

 

トカトントン

 

 

 

 

 

 

 

「おまえ免許もってないの?」
「調理師免許?」
「いやいやなんでやねん」

 

 

 

 

 

 

 

  • 自転車が撤去され続ける街で
  • 形容詞を絶滅させたい感嘆符
  • 四半世紀ボォイ四半世紀ガァル

 

 

ぼくのなまえはさみしい

 

よく死にたいとおもう。

たぶんこれはうそで、あらゆる欲望が叶ってほしいけど無理だし、言い換えるのも面倒だし、それが億劫になるくらいには悲しんでいる、ということを、一言死にたいに託している。

死にたいと思って、じゃあ死のうと思って、じゃあどうやって死のうと思って、と死への一連の手続きの思考がつづくと、やっぱり死ぬのがこわいということに立ち返る。

 

きっとこのこわさの原因はいくつかに分かれていて、大きくは、得体のしれないなにかに至るような、えも言われぬものと、死に際する身体的な痛みのふたつがあげられると思う。

おばけとかわからないものはこわいし、からだが痛いのはいやだ、みたいな話だと思う。

このこわさに対峙しているとき、一旦からだの痛みはないものとして、ひとつ純度の高い死への恐怖を考えてみると、残るのは、さっきの話で言うと前者の、えも言われぬこわさだ。そうしてまたそのこわさについて考えてみる。

死んだあと、なにもないとする。自分がなにもないもわからないし、世界もなにもないもわからない。ねむっているとき、意識はないけど、あることが前提だから、ないなりになにかあるきがする。たぶんそんなレベルではなくなにもない。これはまったくわからない。

じゃあ死後の世界があるとする。天国や地獄があったり、そのあとに輪廻転生が待っていたり。なにか世界があるとして、どんな制度かわからないし、一人で行くのはいやだ。はじめての場所に一人で行くのは緊張する、の強化版。

 

そんなかんじに、わからないものに至ることを考えていると、死に際して、ひとりでそこに至るさみしさが紛れ込んでいることに気づく。

現世で培ってきたものを手放すさみしさと、来世にひとりでいくことへのさみしさだ。

だれか一緒にいてくれたら、すこしはこわくなくなるのに。

だれかが一緒にいてくれたら、現世で培ったものが保障されながら死ねるし、来世にもふたりでいけるし。

たぶんこんな気持ちに応えてくれるのが、心中という制度。

「眞實の愛の証明」や「現世では報われないから来世で」みたいな意味合いもあると思うけど、こんなふうに愛が前提じゃなくて、今考えているのは、絶望が前提だ。

絶望からの解放を望んで、死を欲するけれど、その死にはさみしさが伴うから、そのさみしさをやわらげるために一緒に死んでくれる人がいてくれたらな、って思う心中。

 

よくしらないからてきとーを言うようで申し訳ないけれど、たぶん太宰治はこっちがわの心中。

きっと、心中をしていった多くの人たちが、こんなさみしさを紛らすためにだれかを巻き込んでいる。誰かの命を自分のためにつかえるほどに、彼らは自分が中心。

そんな自分中心で生きることに疲れ果て、最後のわがままに最大のわがままをする。

心中する人間は、底からさみしがりやだ。

 

次は君。

 

 

 

エスカレーターの終点で落ち葉が回っている

 

テステス

東京メトロのある駅、上りエスカレーターの終点に落ち葉が溜まっていた。机の上に置いていた食べかけのういろうが使用済みのコンドームに見えた。再配達の依頼を午前中にしたのは自分だけれどもまだ来ないでほしかった。文字数に愛を込めて。とりあえず1000字。書くことのリハビリをしたいと長いこと思っていてこれはいい機会だと思っていたけれど、別にリハビリなんて言えるほど以前書いていた訳でもなかった。一度も手に入れたことのないものを取り戻そうとしがち。自分を含めた大部分の人にとって、書けば書くほど、正確には書こうとすればするほど、書こうと思っていたはずのものが遠ざかっていくということは自然なことで、ペンもしくはキーボードに触れていないときにもっとも何かが書けそうな気がしているのもフツウなことなのだと思う。書いていないときに一番書ける気がしていて書いているときに一番書けない気がしている。でも中には気付いたら書いている/書けている人もいるようで、そういう人が羨ましい。そういう人は「書いていないとき」のあの無為で当てにならない「何かが書けそうな感じ」を経由せずに、もしくは一瞬経由したとしてもそこにいたずらに浸ることなしに、書いている状態になっているように見える。それはそう見えるだけで、彼らには彼らなりの「書いていないとき」の時間があるのかもしれないし、あるに違いないのだけれど、彼らはその「書いていないとき」との付き合い方が上手なのだと思う。はなし変わって(本当に変わる)、カメラが欲しいとこれもまた長いこと思っていて、それがどうしてなのか判然としていなくてその不透明をそのままにしたままではなかなか購入に至らない至れないナアとなっていた、が、はっとした文章が岩淵さんのこの連載「10年後の遭難フリーター」vol.8 2011年、大森靖子さんにあった。「撮影する、ということは、相手から許されている、という気持ちが底にある」というのは皆がそうとは言えないけれど、自分は明らかにそういう快を求めてカメラを向けているときがある、それがすべてじゃないだろうけれど。1000字。なんのこっちゃ。全く書簡らしさのようなものは無いけれど取り敢えずこれでいいのだと思う。次はあなた。

 

 

 

 

 

「暇だねえ」
「暇だねえ」
「なんかしたいことある?」
「形にしてみたい」
「何を?」
「何かを」

 

 

 

 

 

  • 居直りを許してお詫びにサッカリン
  • 欲しいのは優しさじゃないアミラーゼ
  • 会えたのに邪魔をしないでポロロッカ