bohems'

複数人による交換日記

tes2


cal-align: top;}

これまでがそうだからこれからもそう

 

恋人に裏切られて、ひとはどうせ浮気をする、という価値観が

定着した人がいる。

 

こうした人に惚れてしまった場合、厄介だ。

自分が浮気をしない人間ではないという証明は、

生涯無実を貫いて、連れ添うことによってなされるからだ。

 

しかし、考えてみると、浮気をしない人間であるという認識は、

事実による証明ではなく、受け取り手へ伝えてある分の情報に加えて、

浮気をしそうな人間の行動傾向を見せないことによってつくられる。

本来それで十分なはず。

 

それでも、疑心暗鬼なひとを信じ込ませるには、やはり生涯による

証明が必要だろうか。

 

「僕は浮気はしないよ」

と言う言葉は、

「僕は今まで浮気はしたことがないよ」か、もしくは

「僕は浮気をしないと生涯をかけて証明するよ」と

言い分けてもいい気がする。

 

ひとりのひとを愛するためには、骨が折れる。

ぼくの骨は何本か折れてしまっているが、

カルシウム不足だったろうか。

牛乳を飲んだらおなかがこわれてしまう体質だから、

王道は避けた骨の鍛え方をしなくちゃいけなくて、

どうにもあたまがおもい。

 

 

 

これまでを変えるためにこれからがあるのに、

これまでがあるからこれからが変えられない。

 

 

つぎはきみでも、ぼくでも。

 

 

 

 

思いは出さずに入れておく

 

壁にかかった抽象画や吊るされたドライフラワー、瓶に詰まったポプリの香り。

いつからこの部屋はこんなことになったのだろう。

読みづらい哲学書やほこりをかぶったアーティストの画集、デート特集のポパイの表紙。

いつしかこんなものが役に立つときがくるだろうか。

 

午前3時、ねむれないよるにねむろうとしていた。

どうにも睡眠が下手なので、諦めてタスクの処理に手をまわしてみるけれど、

もう来ている明日との付き合い方がわからず、作業の手を止めてしまった。

 

たいして好きなわけでもないはずの、思い出に寄り添った曲を聴いて、

美化された過去に癒されるなど、安っぽい情緒に頼ってみたけれど、

特に状況は好転するわけもなく、正体のわからない嫌な感情と一緒にいる。

 

抱きしめた彼女の背中に描かれたタトゥーは、別にすきな絵柄じゃない。

でも、肌色の続きに、肌色が来る風景にも飽きていたから、

すきかどうか関係なくすき。

 

自然で溢れるおおきな公園のわきにある、おおきなすべり台をすべった。

せまい原っぱの上に寝転がって、くもの動きを目で追った。

野鳥の会の会員です」という見え透いた嘘が本当らしくなるように、鳥の写真を撮った。

背もたれのついたブランコは、揺れの激しい乗り物みたいで、具合が悪くなった。

思い出になる前から美しくて、思い出になったらどれだけ美しくなるのか楽しみになった。

出す前に、まずは入れておこうとおもった。

 

つぎはじぶん。

 

酔筆

 1日を終わらせるために酒を飲む

二階堂2杯と百年の孤独6杯で

 

 

 

 

次のソナタ

 

エソラエ

ふと餃子がたべたくなって、近所のスーパーまで、材料を買いに行った。

ちょっと多すぎかな、ってくらい材料を買ってしまうきらいがある。

きっと7人前くらい買った。餃子が食べたかったのは事実だけれど、本当は外に出ておきたくて、餃子を口実にした。

そんなわけだから、ちょっとわざとらしいくらいに景色を眺めて歩いた。

空が綺麗だった。

なにかの絵画でみたような印象だった。

つまりは、油絵のタッチで、雲が明確に線引きされ、そこにあるのはただの水蒸気のかたまりではなく、生クリームのかたまりのようだった。

空が絵のようだった。

'絵空事'という言葉がある。

kotobank.jp

ということらしい。

空の絵を描いて、そのままだと味気ないから、少し脚色してけばけばしくさせることをいうのだろう。

空の絵が、絵空事。

 

餃子のときの空は、絵のような空だった。

でも、もともとは絵空事の説明にもあるように、誇張されて、現実には起こらないであろうことを言い表すのが、絵空事の役目であって、落とし込む方向が逆行している。

空が絵になるのであり、絵が空になるのではない。

しかし、餃子のくだりでいうならば、

空があって、その空が絵になり、その絵が空になった。

煩雑なインプットとアウトプットの連続の結果残ったのは、現実に生まれた絵空だった。

前稿が全く踏襲されていないけれど、いいよね。ショートコントつくらへん?

次はそち。

 

 

 

 

 

 

 

 

ジッタリンジンのお湯割り

目覚まし時計の音がトカトントンだから何にも夢中になれない女が昼からジッタリンジンのお湯割りを飲んで眼精疲労の千駄木ワルツを踊っている。

 

中島らものエッセイ集『僕にはわからない』 のなかに「人は死ぬとどうなるのか」という5ページの文章がある。その文章では「『生』の対立概念として「死」というものを持ってくるから話がおかしくなる」というところから話が始まってバタイユの「連続」と「不連続」を引き合いに出して最終的に「我々の死、つまり個々の不連続が全体の連続を支えているのだ。その意味で我々は『永遠に死なない』と考えても誤りではない」といったことが述べられたりしている。この「『永遠に死なない』と考えても誤りではない」という捉え方を実は気に入っている。もちろんこの話はひとつ前のさみしい文章にて書かれた問題と前提においてすれ違ってはいるけれども、さみしい投稿を読んで真っ先にこの「永遠に死なない」話が脳裏を去来去来去来去来去来した。

 


桂枝雀 中島らも 対談

この動画の序盤で「永遠に死なない」話と同じようなことを言っている。でもこれは「あんなものはタダでよいのだ」が好き。
また同じ文章のなかで、「僕という個の存在は、僕の精子が一人の女性の卵子と結合した瞬間にその存在意義を完遂している」という箇所があって、ここに至る道筋は面倒なので詳述しない(のでこれだけ読んでも汲みがたいだろうけれどけど、これは全体と個、種と個という見方からはその通りともいえる(「その通りともいえる」というのはなんて卑怯な云い方deshooo)のだけれど、これは結構残酷だよナア(じゃあ「結合」しない個の意義は?)と思いかけるけど、そういう個も無数の不連続のうちの一つにカウントされて回収されるのだな、でも!、という話でしたケド。次は汝。

 

僕にはわからない (講談社文庫)

僕にはわからない (講談社文庫)

 

トカトントン

 

 

 

 

 

 

 

「おまえ免許もってないの?」
「調理師免許?」
「いやいやなんでやねん」

 

 

 

 

 

 

 

  • 自転車が撤去され続ける街で
  • 形容詞を絶滅させたい感嘆符
  • 四半世紀ボォイ四半世紀ガァル

 

 

ぼくのなまえはさみしい

 

よく死にたいとおもう。

たぶんこれはうそで、あらゆる欲望が叶ってほしいけど無理だし、言い換えるのも面倒だし、それが億劫になるくらいには悲しんでいる、ということを、一言死にたいに託している。

死にたいと思って、じゃあ死のうと思って、じゃあどうやって死のうと思って、と死への一連の手続きの思考がつづくと、やっぱり死ぬのがこわいということに立ち返る。

 

きっとこのこわさの原因はいくつかに分かれていて、大きくは、得体のしれないなにかに至るような、えも言われぬものと、死に際する身体的な痛みのふたつがあげられると思う。

おばけとかわからないものはこわいし、からだが痛いのはいやだ、みたいな話だと思う。

このこわさに対峙しているとき、一旦からだの痛みはないものとして、ひとつ純度の高い死への恐怖を考えてみると、残るのは、さっきの話で言うと前者の、えも言われぬこわさだ。そうしてまたそのこわさについて考えてみる。

死んだあと、なにもないとする。自分がなにもないもわからないし、世界もなにもないもわからない。ねむっているとき、意識はないけど、あることが前提だから、ないなりになにかあるきがする。たぶんそんなレベルではなくなにもない。これはまったくわからない。

じゃあ死後の世界があるとする。天国や地獄があったり、そのあとに輪廻転生が待っていたり。なにか世界があるとして、どんな制度かわからないし、一人で行くのはいやだ。はじめての場所に一人で行くのは緊張する、の強化版。

 

そんなかんじに、わからないものに至ることを考えていると、死に際して、ひとりでそこに至るさみしさが紛れ込んでいることに気づく。

現世で培ってきたものを手放すさみしさと、来世にひとりでいくことへのさみしさだ。

だれか一緒にいてくれたら、すこしはこわくなくなるのに。

だれかが一緒にいてくれたら、現世で培ったものが保障されながら死ねるし、来世にもふたりでいけるし。

たぶんこんな気持ちに応えてくれるのが、心中という制度。

「眞實の愛の証明」や「現世では報われないから来世で」みたいな意味合いもあると思うけど、こんなふうに愛が前提じゃなくて、今考えているのは、絶望が前提だ。

絶望からの解放を望んで、死を欲するけれど、その死にはさみしさが伴うから、そのさみしさをやわらげるために一緒に死んでくれる人がいてくれたらな、って思う心中。

 

よくしらないからてきとーを言うようで申し訳ないけれど、たぶん太宰治はこっちがわの心中。

きっと、心中をしていった多くの人たちが、こんなさみしさを紛らすためにだれかを巻き込んでいる。誰かの命を自分のためにつかえるほどに、彼らは自分が中心。

そんな自分中心で生きることに疲れ果て、最後のわがままに最大のわがままをする。

心中する人間は、底からさみしがりやだ。

 

次は君。