読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

bohems'

複数人による交換日記

ぼくのなまえはさみしい

 

よく死にたいとおもう。

たぶんこれはうそで、あらゆる欲望が叶ってほしいけど無理だし、言い換えるのも面倒だし、それが億劫になるくらいには悲しんでいる、ということを、一言死にたいに託している。

死にたいと思って、じゃあ死のうと思って、じゃあどうやって死のうと思って、と死への一連の手続きの思考がつづくと、やっぱり死ぬのがこわいということに立ち返る。

 

きっとこのこわさの原因はいくつかに分かれていて、大きくは、得体のしれないなにかに至るような、えも言われぬものと、死に際する身体的な痛みのふたつがあげられると思う。

おばけとかわからないものはこわいし、からだが痛いのはいやだ、みたいな話だと思う。

このこわさに対峙しているとき、一旦からだの痛みはないものとして、ひとつ純度の高い死への恐怖を考えてみると、残るのは、さっきの話で言うと前者の、えも言われぬこわさだ。そうしてまたそのこわさについて考えてみる。

死んだあと、なにもないとする。自分がなにもないもわからないし、世界もなにもないもわからない。ねむっているとき、意識はないけど、あることが前提だから、ないなりになにかあるきがする。たぶんそんなレベルではなくなにもない。これはまったくわからない。

じゃあ死後の世界があるとする。天国や地獄があったり、そのあとに輪廻転生が待っていたり。なにか世界があるとして、どんな制度かわからないし、一人で行くのはいやだ。はじめての場所に一人で行くのは緊張する、の強化版。

 

そんなかんじに、わからないものに至ることを考えていると、死に際して、ひとりでそこに至るさみしさが紛れ込んでいることに気づく。

現世で培ってきたものを手放すさみしさと、来世にひとりでいくことへのさみしさだ。

だれか一緒にいてくれたら、すこしはこわくなくなるのに。

だれかが一緒にいてくれたら、現世で培ったものが保障されながら死ねるし、来世にもふたりでいけるし。

たぶんこんな気持ちに応えてくれるのが、心中という制度。

「眞實の愛の証明」や「現世では報われないから来世で」みたいな意味合いもあると思うけど、こんなふうに愛が前提じゃなくて、今考えているのは、絶望が前提だ。

絶望からの解放を望んで、死を欲するけれど、その死にはさみしさが伴うから、そのさみしさをやわらげるために一緒に死んでくれる人がいてくれたらな、って思う心中。

 

よくしらないからてきとーを言うようで申し訳ないけれど、たぶん太宰治はこっちがわの心中。

きっと、心中をしていった多くの人たちが、こんなさみしさを紛らすためにだれかを巻き込んでいる。誰かの命を自分のためにつかえるほどに、彼らは自分が中心。

そんな自分中心で生きることに疲れ果て、最後のわがままに最大のわがままをする。

心中する人間は、底からさみしがりやだ。

 

次は君。