bohems'

複数人による交換日記

2週間の誕生日

思えば、目が醒める瞬間というのは、とても不思議な感覚だ。
瞼を開いて、目の前の光景を認識するよりも早く、何か他のことを考えている。
それは、今日が何月何日の何曜日だとか、仕事に行きたくないとかだったりするけれど、
起きるまでの思考の断絶とは裏腹に、「仕事行きたくないからもう少しだけ眠りたいからあと5分寝たいけれど、そうすると7時52分の電車に乗ることができなくなる、だけどその5分は歩行速度や準備のクオリティの操作でカバーしうるのではないか、それならば、むしろあと10分寝られるではないか、寝よう」といったような先を計算した一連の複雑な思考であったりする。
仕事のない日であれば、形而上学的な問いを、形成していたりもする。それまで、社会から切り離されていた分、余計なしがらみにとらわれず、純粋な概念で思考が組み立てられたりするというものだ。

目が醒めるというのは、それまで、主客未然のいわゆる無の中にあるとも思しき状態にあったはずなのに、突然の物理空間に投げ出されてしまうということだ。そんな状態に疑問を抱くこともせず、目を醒まし、眠っている間にも客観的にあったと想定される自分を取り巻く状態を確認すべく、携帯の画面に目を向ける。いわば、断絶前と後の擦り合わせだ。

そうして日付や時間や自分宛の連絡を確認していると、今日が5月2日であることに意識が向かった。この時、今日が5月2日であるということより、明日が5月3日であることに意識はあった。5月3日は10年ほど前、中学生であった時に恋をしていた女の子の誕生日なのだ。今となってはどうでもいいことであるが、当日ではないにもかかわらず、その日を意識することに興味がわく。これは、おそらく、好きな人の誕生日を祝うことは、当日の話ではなく、その日に至るまでの計略に力点が置かれていることを意味しているのだ。

誕生日というのは、門戸の開放されたイベントである。好きな人がたとえ、友達の恋人でも、片思いでも、上司でも、少し遠い関係の人でも、誕生日という理由をつけて、話しかけられるし、プレゼントを贈ることもできる。それはつまり、好意を、祝うことは人として自然なことであるというような社会性に偽装させて押し付けることができるということであり、誕生日は数少ない合法的に接触できる機会なのだ。それゆえに、不器用に片思いをしている自分にとってもまた、貴重な機会であり、当日を前に、何をあげたらよいかとか、どのタイミングならば会えるだろうか、と案じていたのだった。テストでいい点を取るには、一夜漬けではダメで、2週間前から準備しておく必要があると言われていたが、誕生日に好印象を抱いてもらうためには、2週間前くらいから考えておく必要があった。いやほんとはなかった。だけれど、楽しみで仕方がなかった。それは、体をなさないデートのようなものだった。2週間という長い間、いつもより想いを馳せ、祝う瞬間を永遠のつもりで楽しんだ。永遠に感じる一瞬という表現はよく目にするが、自分はあまりそれを感じたことはない。ただ、こうして10年経った今でも、そうした出来事を反芻していることを考えると、幸せな瞬間として記憶が形成され、反芻されることで、永遠を作り上げているのかもしれない。

準備を含めた2週間の誕生日は、実は永遠を意識する媒体だったのだ。




だったのか?